敵対あるいは抑圧してくる人に対する対処1
マタイ5:38-42には次のように記されています。
“38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。”(2017)とあります。
38節には、「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」とあります。
この文の中の「と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」という箇所は、律法の中の一節を指しています。出エジプト記に記されているこの箇所は、出エジプト20章の十戒から始まり、23章まで続いている律法の聖句の中にあります。そして24:3-8を読むと分かりますが、ヤハウェ(主)に対してイスラエルは、律法を守るという血の契約を結んだのです。
出エジプト24:3-8には次のように記されています。
“3 モーセは来て、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のすべてのことばと、すべての定め〔すべての法(新共同訳)〕をことごとく民に告げた。
すると、民はみな声を一つにして答えた。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言われたことはすべて行います。」
4 モーセは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のすべてのことばを書き記した。
モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ〔全的献身を表しています(筆者挿入)〕、また、交わりのいけにえとして雄牛を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に献げた〔神との交わりを表しています(筆者挿入)〕。
6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。
7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言われたことはすべて行います。聞き従います。」
8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。
「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたと結ばれる契約の血である。 」”(2017)とあります。
以上のように、イスラエルは、律法を守るという血の契約を、神ヤハウェと結んだのです。
この律法の中に、裁判の規定がありました。
出エジプト21:1には、“これらはあなたが彼らの前に置くべき定め〔「法」(新共同訳)〕である。”(2017)という文から始まって、
出エジプト21:23-25には次のように記されています。
“23 もし、その他の損傷〔「害」(口語訳)〕があるならば、
命には命、24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、25 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。”(新共同訳)とあります。
また申命記19:15,21には次のように記されています。
“15いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。
21あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。”(2017)というように裁判の中の条文として語られています。
トラブルがあった時に、私刑を防ぐ意味合いで、ヤハウェ(主)は定めたのです。
レメクのようにならないためであろうと思います。
レメクはどのような人であったのでしょうか?
創世記4:23,24には次のように記されています。
“23 レメクは妻たちに言った。
「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」”(2017)とあります。
さて、イエス様は、至高の神様、すなわち万物の根源であられる神様を天のお父様、と呼べる人たち(マタイ5:45,48、6:6,9)について、マタイ5:38-42の箇所を語ったのです。
再掲しますと、
“38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
41 あなたに一ミリオン〔約1480m(聖書協会共同訳)〕行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。”(2017)とあります。
同じ個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“38「あなたがたの教えでは、『人の目をえぐり出した者は、自分の目もえぐり出される。人の歯を折った者は、自分の歯も折られる』とあります。39 しかし、わたしはあえて言いましょう。暴力に暴力で手向かってはいけません。もし右の頬をなぐられたら、左の頬も向けてやりなさい。40 借金のかたに下着を取り上げようとする人には、上着もやりなさい。41 荷物を一キロ先まで運べと命令されたら、二キロ先まで運んでやりなさい。42 『何か下さい』と頼む人には与え、借りに来た人を手ぶらで追い返さないようにしなさい。」”とあります。
この聖句を、「天の父」即ち「霊の父」(ヘブル12:9)を持たない人に押し付けても、それは無理というものです。
霊の父を持つためには、イエス様を信じて新生する必要があるからです(ヨハネ3:3,6、1ペテロ1:3)。
ヨハネ3:3,6には、“3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく〔原語は「アーメン、アーメン」(筆者挿入)〕。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
6 「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」”(新共同訳)と記されています。
同じ個所をフランシスコ会訳は次のように記しています。
“3イエスは答えて仰せになった、「よくよくあなたに言っておく。人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」。
6 「肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊である。」”とあります。
「新たに」(新共同訳)、「上から」(フランシスコ会訳)と訳されている語のギリシア語原語は、「アノーセン」で、どちらの意味もあります。イエス様は、両方の意味合いを合わせて語られたものと思います。
キリスト者は霊の人として歩むことができる恵みを与えられているのです。
イエス様は上記の聖句を語られましたが、実際にそのような心のありようで歩まれたお方です。それは御父の御名が崇められるためでした。
イエス様は、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:16・2017)と語られ、また、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5:48・2017)と語られました。
イエス様が語られた真意は、平和運動のための言葉ではなく、神の栄光のためです。
イエス様の上記のようなご命令に対して、人の肉の思いや感情は、「絶対に無理」と言うでしょう。
しかし、霊に関しては、「主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。」(1コリント6:17・2017)と記されています。
パウロは言いました。
「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰〔原文は「神の御子の信仰or真実or実質」とも訳せます(筆者挿入)」によるのです。」(ガラテヤ2:19.20・2017)と。
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
もし、肉において害を受けるようなときには、あなたの恵みによって、主と一つとされている霊によって対応することができますように。
そこまで行かない場合には、よくよく祈ることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。